インタビュー

誰ひとり取り残さない町へ―大熊町で実践する新しい教育のかたち【南郷市兵さん】

認定こども園と義務教育学校が一体となった教育施設「大熊町立 学び舎 ゆめの森」。校長・園長を務める南郷市兵さんは、地域と連携しながら、子どもたちが自ら考え、社会と関わる力を育む教育を実践しています。震災後の大熊町で新たな学びの場をつくる意義とは何か。そして、未来の教育に必要なこととは。南郷さんに、学校の取り組みや今後の展望について伺いました。

南郷市兵(なんごう・いっぺい) 「大熊町立 学び舎 ゆめの森」GM(校長・園長)。IT企業勤務後、文部科学省へ入省し、東日本大震災後の教育復興を担当。2015年、福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校を設立し、副校長として運営を支える。2023年より現職。震災と原発事故で失われた学校教育の再興に取り組み、新しい学びの場づくりを進めている。

“教育と社会”をライフワークに

画像:相馬LIKERS

―まずは、教育復興に携わることになった経緯について詳しくお伺いできますでしょうか。

教育の仕事に関わるまでの過程についてお話しすると、もともと大学の頃から「社会と学びをどう繋ぐか」を考えていました。無限の可能性を持っている子どもたちを学校の中に閉じ込めず、どうやって実社会へその力を解き放っていくかということを、ライフワークにしたいと思っていたんです。

大学卒業後は新卒でIT企業に入社したものの、その後文部科学省へ。そして2011年に東日本大震災が起こったことをきっかけに、福島の復興に携わるようになりました。

―南郷さんは高校生の時に、阪神淡路大震災のボランティアにも参加されているんですよね。

そうですね。高校1年生のときに阪神淡路大震災が起こり、ボランティアとして現地に入った時のことは、自分の価値観に影響を与えていると思います。

また、高校生の時に「原発の住民投票」に関する研究をして論文を書いたことがあるんです。日本で初めて原発の設置に関する住民投票が行われたのが新潟県巻町。原発や災害を通じて行政と住民の関係を知ったことは、社会の仕組みに興味を持つきっかけのひとつでしたね。学生の頃から、様々なニュースを見る中で「他人ごとではいられない」という意識は常にあったように思います。

子どもたちは、ただ守るだけの存在ではない

南郷さんと「学び舎 ゆめの森」に通う子どもたち
画像:大熊町立 学び舎 ゆめの森

―東日本大震災を経て、考え方が変わったことはありますか?

震災直後、岩手や宮城の中学生や高校生、大学生たちはどんどん行動していたんですよ。避難所の人たちを元気づけるために炊き出しをしたり、合唱のボランティアをしたり、町の復興を考えるワークショップを開いたり。いろんなアクションを起こしている姿を見て、「子どもたちにはすごい力がある」と実感しました。

彼らは未熟で守られるべき存在として、ただ学校に閉じ込めておくものではない。彼らにも「こういう町にしたい」という情熱や意志があって、実際に行動を起こして社会を変えていく力を持っているんだ、と。

たとえば震災後の春頃に、浪江中学校の学年通信をもらったことがありました。先生と生徒会長が、全国に避難した同級生たちに呼びかけて、一言メッセージを集めて、学年通信に載せて発行していたんです。当時は、今のように中学生がスマホを持っている時代ではなかったから、かなり大変だったと思いますよ。そのメッセージの中には、「みんなと会えなくなるなんて思わなかった」「すべてを失ってしまった」「楽しみにしていた修学旅行もなくなってしまった」「悲しい思いでいっぱいだけど、それぞれの場所で頑張ろう」……そんな言葉が並んでいたんです。子どもたちは、それぞれの場所で懸命に生きていました。必死に戦っていましたよ。

それを読んだ時に「なんて思いをさせてしまっているんだろう」と、ものすごく胸が痛みました。子たちのために、大人はできることを何でもやらなければならない、そう強く思いました。

とはいえ、原発事故からの復興は数十年かかります。その時には子どもたちはもう大人になってしまっている……。私たち大人は、その重い現実を子どもたちに背負わせてしまうことになるのです。だからこそ、復興の当事者として子どもたちの意見をしっかりと取り入れることは必要不可欠。彼らが復興に参画し、自分たちの未来を形作っていく権利があるのは当然だと考えています。

―「ふたば未来学園」、そして「学び舎 ゆめの森」の開校について、当時の状況を教えてください。

「学び舎 ゆめの森」の中心にある開放的な図書ひろば
画像:大熊町立 学び舎 ゆめの森

双葉郡の教育復興に関しては、何も決まっていない状態から始まりました。関係者一同、切実な危機感と、何とかしなければならないという使命感だけがありました。目の前の課題が山積みで、とても長期的なビジョンを考える余裕はなかったのが正直なところです。でも、復興には数十年かかるからこそ「私たち大人は子どもたちのために何をすべきなのか?」という視点については、みんな意見が一致していました。

「ふたば未来学園」から異動して「学び舎 ゆめの森」に着任したのが2023年の4月。この開校の準備自体は大熊町の人たちが中心となって進めてきたプロジェクトですが、私は国の担当者として、大熊の教育復興にはずっと一緒に取り組んできました。当時、避難先で学校を運営すると言っても、本当に何もない状態で。教科書もなければ、机や椅子もない。廃校になった建物を借りて、ゼロから学校を作るしかなかったんです。

そういう状況では、「そもそも学校とは何か?」「何があれば教育が成り立つのか?」と根本から考えざるを得なくなります。単に教科書の知識を詰め込むだけではなく、自分で考え、何かを生み出す力が必要だという結論に至ったんです。そこで震災後、双葉郡の学校では「ふるさと創造学」というプログラムを始めました。これは、子どもたちが「ふるさとの復興や未来のために、自分たちでプロジェクトを企画・実施する」という取り組みです。今で言う“探究型学習”ですね。双葉郡の教育復興ビジョンを議論した際に決まった大きな柱の一つです。

誰ひとり取り残さない町を目指して

―双葉郡の地域の人々に対しては、どのような印象を持たれていますか?

大変な状況の中でも、「なんとかするしかない」「本当に必要な改革をしないといけない」という強い危機感を持ってリーダーシップを取れる方が多いと思います。これは相馬でも双葉でも同じですが、震災によって当たり前の日常を奪われた中で「どうするか?」を常に問われてきたからこそ、思い切った挑戦をしようという覚悟のある人が多いのかなと。

傷が完全に癒えたわけではないし、過去を忘れたわけでもないけれど、それでも前を向いて挑戦する姿勢を持っている人がたくさんいます。いわゆる「地方の閉鎖性」とか「保守性」といったものは、双葉郡ではあまり感じたことがないですね。

特に大熊は、本当に大変な思いをした町のひとつだと思っています。そして、多くの人や自治体から助けてもらった町でもある。だからこそ、優しい町を作りたいんです。移住者、海外の人、お年寄り、子ども、ハンディキャップのある人……。誰ひとり取り残さない町、すべての人に居場所がある町にしていきたいですね。

子どもたちの「考える力」を育てるために

広々としたグラウンドで「スポーツフェスティバル」も実施
画像:大熊町立 学び舎 ゆめの森

―「学び舎 ゆめの森」で目指していることは何でしょうか。

学校が大熊町に戻ってからは徐々に子どもたちの数が増え、現在では0歳から15歳までの子どもたちが74人となりました。移住されてきたご家庭のお子さんも半分くらいいます。

「学び舎 ゆめの森」では、子どもたちの「考える力」を育てることを掲げていますが、これはゆめの森だからやるべきことではなく、全国の学校が取り組むべきことだと思っているんです。教科書の知識を詰め込むだけではなく、課題解決能力やコラボレーションの力を育むこと。そして、さまざまな事情を抱えた子どもたちが元気に通える「インクルーシブな学び」の実現に繋げていきたいですね。

―最後に、読者のみなさまへメッセージをお願いします。

「学び舎 ゆめの森」のビジョンは、『「わたし」を大事にし 「あなた」を大事にし みんなで未来を紡ぎ出す』。「わたしを大事にする」とは、自分の可能性を最大限に伸ばすこと。 「あなたを大事にする」とは、自分の自由や幸せだけを追求するのではなく、他者の自由や幸せにも目を向けること。 「みんなで未来を紡ぎ出す」とは、子どもも大人も一緒になって、社会に参画しながら未来をつくっていくこと。

復興は誰かが代わりにやってくれるものではありません。子どもも含め、地域の人々が試行錯誤を重ねながら、成功や失敗を繰り返し、少しずつ積み重ねていくもの。その積み重ねが、いつしか復興の歩みとなるはずです。子どもたちをどんどん社会に飛び出させていきたいと思っているので、復興も教育も、ぜひ地域の皆さんと協力しながら進めていけたらと思います。

今回のインタビューで、南郷さんの子どもたちに対する思いや、教育復興への思いについてお聞きすることができました。「学び舎 ゆめの森」の今後と、双葉郡の教育現場の発展が楽しみですね。

大熊町立 学び舎 ゆめの森

連載「情熱の相馬人」では、相馬のこれからを創るさまざまな人の魅力に迫ります。
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